ジャニーズのプロデューサーであるジャニー喜多川は日系二世で、1950年代前半にはサンフランシスコでの日本芸能人の公演に間近で接し、またその多くの知遇を得ていた。1953年に米国大使館の通訳として来日したジャニーは、居住していた代々木ワシントンハイツで、近所の子供たちに野球を教えていた。チームは弱かったため喜多川はヘターズやエラーズなどと呼んでいたが、所属していたあおい輝彦が「ジャニー[注釈 1]さんが監督なんだからジャニーズがいいんじゃない?」と提案し、他の子供たちもそれに賛同したためジャニーズと名付けられた。

ある日、雨で野球の練習が出来なかったため、喜多川は少年たちを引き連れて映画『ウエストサイドストーリー』を鑑賞した。彼らは同作に衝撃を受け、喜多川はエンターテインメント事業への参入を決意する。喜多川は米国由来の舞台芸術への憧れを持っており、メンバーもダンスのレッスンを熱心に行った。1962年4月、野球チームのメンバー4人でジャニーズが結成される。当初は新芸能学院(現:名和プロダクション)に在籍していたが、6月に喜多川がジャニーズ事務所を創業。ジャニーズは同事務所初の所属グループとなる。

1962年8月、NHK総合夢であいましょう』で田辺靖雄のバックを務め、芸能界デビューする。同番組は生放送の舞台ショーであったため、ジャニーの芸能方針に一致していたのである。当時のいわゆる「アイドル枠」としては御三家(橋幸夫舟木一夫西郷輝彦)がいたが、「歌って踊れるアイドル」という稀有な存在が重宝されることとなった。1964年12月、『若い涙』でレコードデビュー。『夢であいましょう』内のコーナー「今月の歌」に採用される。以降も、永六輔中村八大のゴールデンコンビによる楽曲を次々と発表する。1965年、『第16回NHK紅白歌合戦』に初出場(ジャニーズとして唯一の紅白出演)。披露したのは音楽劇『三文オペラ』の劇中歌「マック・ザ・ナイフ」のカバーで、やはり舞台を意識したパフォーマンスであった。

本物の舞台ショーにも積極的に出演した。1963年1月、日劇『第19回ウエスタン・カーニバル』に出演し、伊東ゆかりの「ロコモーション」のバックを務める。1965年、日本版ウェストサイド物語というべきミュージカル『焔のカーブ』(脚本:石原慎太郎、主演:北大路欣也)にも出演した。

1966年8月28日、本格的なダンスレッスンをするために渡米。その後、ワーナー・ブラザースとの契約が決まり、予定の3ヶ月という滞在期間を延長してLPレコードのレコーディングを開始。その中から2曲を全世界に向けてシングルリリースした。プロモーションフィルムも制作していたが、何らかの原因により吹き込みが叶わなかった。なお、未発売の楽曲のうち、「Never My Love」はアドリシ・ブラザーズが作った楽曲で、ジャニーズのLPのお蔵入りが決まった後、1967年にアソシエイションによって演奏及びレコード化され、全米チャート第1位の大ヒットを記録している(Billboard Hot 100では最高2位)。

1967年1月5日に帰国。渡米中に爆発的に流行していたグループサウンズを参考にした楽曲を発表するが、程なくして解散へと至ることになる。11月20日、渋谷公会堂でのコンサートを最後に解散した。

解散から2年後の1969年12月13日、日本劇場で行われた『オールスター・歌の祭典』にて、1日限りで再結成された。




(出典 pbs.twimg.com)


あれ?
今までなかったんでしゅか?
(。´・ω・)?

6 名無しさん@恐縮です :2019/05/01(水) 21:26:14.72 ID:mw6GvsmG0.net

>>1

だれも興味ないので

ジャニーズのステマスレは伸びません(笑)

相変わらず不人気ですねジャニーズは(笑)


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